厚生年金・国民年金増額対策室 > 年金読書録(年金、年金生活、社会保障関連の本) > 小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか』の読書録
単行本:237ページ
著者:小田嶋隆
出版社:メディアワークス
発売日:2000年(平成12年)9月20日初版発行
帯
「不平等社会日本」最大のタブー、 学歴の謎を解く!!
目次
まえがき
クラスは階級の卵である
一流大学の学生にオンナが群がるというのは本当なのでしょうか
最終学歴の違う者同士は打ち解けた人間関係を形成できないのだろうか
「学歴にこだわらない」と言いながら受験に翻弄している人々の本音
一代限りの身分であるはずの学歴が世襲されつつあることの不可思議
学歴コンプレックスはいかにして相続されるのか
早稲田フリーメーソン・稲門会の暗躍と跳梁
学歴婚制度が推し進める隠微なアパルトヘイト
学歴無用論をあざ笑うカップリングパーティーの条件
中卒という見えない人々
田中角栄=低学歴なるがゆえに能力をひけらかさねばならなかった男の生涯
郷ひろみ=お受験用仮面夫婦を演じ通した元夫婦の幼稚舎物語
森喜朗首相=学力の欠如がむしろ「実力」の証明になる裏口入学の政治的背景
広末涼子と吉永小百合はどうしてこんなにも扱いが違うのだろうか
「東大なんかくだらない」と言えるのは東大出だけなのだろうか
ぼくたちがサッチーを許せなかった本当の理由
わが学歴=ペーパーテスト巧者の社会的不適応傾向について
あとがき
本書の著者は「早稲田大学卒」という高学歴で、『学歴』でトクした部分や有利な部分、
あるいは高学歴ではない人に対する心情などを、(主観的に)包み隠さず記している。
それゆえ「自慢」「見下し」・・・と取れる箇所も少なくない。
しかしそれは、この本が本音で語られているがゆえであり、
高学歴ではない私にとっては『学歴』の持つ「利」の部分に始めて気づかされる部分もあったし、
「やはりそうか」という再認識した部分も数多い。
学生時代、本書にあるような『学歴』のメリットを知らなかった私は、
例えば数学なら「微分積分なんて世の中では役に立つのか?」というような、
直接的な将来への効用にしか目が向かず、
学習動機が低く、結果として人生を遠回りすることになった。
中学時代、高校時代、もっと早くにこの本に出会っていたら
結果はともかく、勉強へのやる気は俄然違ったものになっていたのに・・・
『学歴』・・・本当は、
「学歴は人間性のごく一部分を一面的に表現した属性であるに過ぎないにもかかわらず、
全人格に対する絶対的な評価基準として通用してしまっている。」(P19)
そこまで言わないまでも、
「現実問題として、人間が人間と付き合う時には、ワインを飲む時と同じく、
いちいち中身を鑑定するよりは、ラベルを見て判断する方が面倒が少ないのである。」(P3~4)
本書の序盤には、サークル活動における実体験を元に、
『学歴』による「女性との出会い」の有利性が語られているが、
これを「くだらない」と一蹴することはできない。
何だかんだ言っても、人は「異性」や「金」、
俗っぽく言えば「綺麗な女性と付き合いたい」「お金持ちになりたい」というものは
根源的な欲求であり、そのことは強い動機づけとなる。
「「恋には偏差値なんて関係ないわよ」そうかもしれない。(略)
恋愛の基礎となる「出会い」の数を問題にするなら、
その頻度は明らかに偏差値に比例している。
結局、一人の学生に寄せられる異性からのアプローチの総数、
すなわち有効恋愛倍率はその学生が所属する大学の偏差値とおおむね正比例の関係を示すものなのだ。
はっきり言おう。「エリート校にはオンナが群がる。」これが現実なのだ。
でなければ、どうして迷い多き年頃の受験生が一心に勉強などするものですか。」(P36)
世間的に見て決して美しい話ではない・・・
しかし、多感な学生にとっては(勉強について)これほどやる気にさせる材料はない。
筆者の出身校の早稲田では、「稲門会(とうもんかい)」という名のOB組織が存在する。
そして、その「稲門会」は無数に存在し、筆者が会社に入社した時も早稲田大学出身者の新入同期が、
同じく早稲田大学出身者の先輩に秘密裏に呼ばれ、飲み会が開催される。
「これからも力を合わせて頑張っていこう」(P84)
「学閥は、圧力団体であり数をたのんだ権力組織である。」(P87)
「出世へのパスポートにもなる」(P88)
数は力、しかも早稲田大学ともなれば会社の主力メンバー・・・
その他大勢の大学出身者は、ハンデを背負っているに等しい?
著者の進学高校の同窓会の話。
集まる面々は東大、慶応、早稲田など一流大学に入れた者で、
浪人、三流大学のメンバーは集まらず・・・
それは偶然なのか、気を遣っているのか、差別なのか・・・
本書P44には
「~あいつが日大だからってバカにする気持ちはないよ。~」
「~二浪だからって劣等感を持っているはずないだろ、オレが~」
という互いの気持ちを言い表した部分もあり、興味を引く。
結論として、筆者は
「私の考えを言おう。
残念なことだが、おそらく差別だ。」
と言っている。
賛否が分かれそうな部分だが、妙に腑に落ちる。
何しろ私自身が「二浪」で「日大」だから。
「ゆとり教育」を唱えていた政治家や官僚の子息は「ゆとり教育」を実践したのだろうか。
「ゆとり教育」とは、つまるところ「支配階層」と「労働者階層」の事実上の身分格差を拡大させただけで、
正直者(国に従い「ゆとり教育」を実践させた親・子)がバカを見ただけではないのか。
「ある小説家の先生が、息子をK大学の付属校に入れるためにかなりムキになって
奔走したという事実を私は知っている。
おかしいのは、その先生が、体制批判の急先鋒であり、自らの小説作品やエッセイの中では、
完全な反学歴主義思想を展開していることだ。皮肉だよね。」(P57)
どちらが真で、どちらが偽であるのかは一目瞭然で、
理想はともかく、現実社会では『学歴』の有用性は否定しがたい。
「学歴なんて関係ない」とする背景には、自分や身内さえよければという風潮も・・・